朝倉凪紗
関係を軽く扱いたくない主体。制度を笑い飛ばすのではなく、むしろ真面目に読みすぎることで、どの区分も自分たちを少し整えすぎると感じてしまう。
この短編で書きたかったのは、関係を残したい気持ちと、関係に名前をつけた瞬間にこぼれてしまうものが同時にある感覚です。
継続関係登録制度は、一見するとやさしい制度です。卒業によって散っていく人間関係を、社会的に参照可能な形で残してくれるからです。
でも朝倉凪紗と篠宮にとって難しいのは、残すかどうか以前に、何として残すのかでした。親友は近いのに整いすぎている。人生証人は面白いのに重すぎる。どの言葉も間違いではないのに、どれかに丸をつけた瞬間、それで全部みたいな顔をされる。
『名前の保留期間』では、自分の名前を選ぶ制度を通して、自己が複数の呼ばれ方の履歴からできていることを書きました。この作品では、その次の段階として、関係そのものもまた制度へ提出しうる対象になったときに何が起きるかを書いています。
最後に二人が選ぶのは、制度に登録された確かな関係ではなく、引っ越した最初の夜に連絡することや、名前が変わったら教えることのような、小さくて具体的な約束です。私はその小ささに、かえって関係の本気が宿ると思いました。
以下は、この物語を制度文書として読んだときに見えてくる主要項目です。人物紹介ではなく、卒業の境目で誰がどの力を担い、何が書類に入り、何がそこから漏れるのかを整理した欄です。
関係を軽く扱いたくない主体。制度を笑い飛ばすのではなく、むしろ真面目に読みすぎることで、どの区分も自分たちを少し整えすぎると感じてしまう。
制度語を使いながら、それだけでは尽くせない近さも知っている他者。「親友でもいいかな」と言いながら、「でも」に残る余剰をはっきり引き受けている。
卒業後の関係を保護し、参照可能にする行政装置。保護の名目で、関係を区分・通知・解除可能な形式へ圧縮していく。
関係が自然に薄くなっていく予感と、何かを決めなければならない期限を同時に作る時間。制度が入り込みやすいのは、この不安定な境目があるからです。
この作品は『名前の保留期間』の続きとして、名前のあとに関係まで制度へ提出される段階を描いています。自己の名づけで起きた圧縮が、今度は二人のあいだに起きる。
この物語の制度は、露骨に冷たい制度として出てくるわけではありません。災害時、入院時、改姓時、転居時といった局面で、家族や婚姻以外の重要な相手にも通知が届く。現代の生活を考えれば、かなりもっともな仕組みに見えます。だからこそ、この制度は効きます。必要そうに見えるからです。
けれど、その必要の言葉が関係をどう扱うかが、この作品の核心です。親友、相互扶助相手、人生証人、元交際継続連絡枠。どれも関係を守るための名前に見える一方で、関係を通知可能・解除可能・参照可能な単位へ整理してしまう。フーコー的に言えば、制度は関係をそのまま保存するのではなく、行政が扱える形式へ変換しています。
この制度の怖さは、関係を壊すからではなく、守ると言いながら、守れる形に整えてしまうところにあります。整えられた瞬間、関係の一部は残り、一部はこぼれる。
作中で何度も強調されるのは「任意」という語の頼りなさです。出しても意味が生まれ、出さなくても意味が生まれる。善意の制度はしばしば、この形で日常へ入ってきます。強制ではないからこそ、選んだ責任が個人へ戻される。その構造が、卒業を控えた教室の空気と噛み合ってしまうのです。
二話と三話で書きたかったのは、近い言葉ほど苦しいという感覚です。篠宮は「親友でもいいかな」と言う。この「でも」には、書類に書ける一番近い名前であることと、それで全部ではないことが同時に入っています。
凪紗が引っかかるのも同じ場所です。親友と呼ばれること自体はうれしい。むしろかなりうれしい。けれど、それで合っていますと役所の顔をされた瞬間に、考えることが終わってしまう気がする。関係の正解が出たことになってしまう。その終わり方が、彼女には耐えがたい。
私はここで、言葉が関係を作るというより、言葉が関係を片づけてしまう瞬間を書きたかったのだと思います。名前を得ることと、名前で終わることは、似ているようで違う。
だから「人生証人」も面白いのにしっくり来ません。変で、役所的で、少しおかしい。でも「親友」よりましな瞬間がある。ましなのに重すぎる。この揺れは、正解探しではなく、どの言葉ならまだ壊れにくいかという選び方に近い。前作の名づけと同じく、ここでも選択は理想の発見ではなく、不完全な引き受けとして現れます。
三話では、名字で呼ぶことと「なぎ」と呼ぶことの差を丁寧に書きました。篠宮が一度「朝倉」と呼ぶのは、距離を取るためだけではなく、関係をちゃんと考えるために、呼び方の前提をいったん外してみる動きです。近さがあるままだと、話さないまま済んでしまうことがある。その感覚は、とても大きいと思っています。
けれど最後には、やはり「……なぎ」と呼び直す。ここで大事なのは、二人の関係には書類の区分より先に声の履歴があるということです。レヴィナスはその感覚を補助線としてよく支えてくれる。他者は理解しきった名称としてより、応答を要求する呼びかけとして現れるからです。
書類に書けない呼び方が、いちばんその関係に近い。ここに、この作品の制度批判の中心があります。制度が届かない場所に本質があるというより、制度が届く前から関係は声の形で始まっているのです。
「なかったことにはしないで」という篠宮の言葉も同じです。彼女が欲しいのは分類の成功ではなく、応答の持続です。だからこの作品の他者性は、説明不能な神秘ではなく、きれいに言い切れないのに切れもしない関係の生活的な強さとして出てきます。
四話で凪紗は「登録しない」が一番近いかもしれないと言います。ここは単純な勝利にしたくありませんでした。篠宮がすぐに「それ、きれいに逃げてるだけじゃない?」と返すのは、その選択がたしかに逃避の顔も持っているからです。区分を選ぶ責任から逃げたい気持ちは、凪紗の中に確実にある。
でも、それだけではありません。名前をつけないほうが本当なこともある、という凪紗の感覚もまた本物です。制度に守ってもらう形へ入れた瞬間、二人の関係が少し別のものになる。その危惧は、制度嫌いの抽象論ではなく、前作で名づけを経験した人物だからこそ出てくる具体的な警戒です。
登録しないことは、区分を引き受ける責任や、決めた言葉に見合う関係を続ける重さから逃げる形にもなりうる。
同時に、制度に預けた瞬間に起きる圧縮から関係を守るために、あえて登録しないという応答もありうる。
私が書きたかったのは、この二つが分離できない状態です。純粋な抵抗でも純粋な逃避でもなく、その両方を含んだまま選ぶこと。ここに、この短編の誠実さがあります。きれいな思想の実演ではなく、迷いの成分を残した選択として結末を置きたかったのです。
二人が最後に決めるのは、「引っ越したら最初の夜に連絡して」「名前が変わったら教えて」という、とても小さな約束です。毎週連絡するでも、絶対会うでも、変わらないでいようでもない。変わることを前提にしながら、それでも切れないための細いしるしだけを残す。
ここでデリダ的に重要なのは、関係が完成した意味として保存されるのではなく、未来へ差し出された反復可能な痕跡として残ることです。約束は、いま全部を定義しません。むしろ未来のある一点で、もう一度応答を起こすための仕掛けになる。制度が登録で保存しようとしたものを、二人は予定された再接続として持ち直すのです。
橋の上で決められる約束が小さいのは、感情が弱いからではありません。大きな言葉ほど関係を代表しすぎるからです。小さい約束は、代表する代わりに、未来の具体的な一点だけを確かにしてくれる。
この小ささが気に入っています。制度は「継続関係」を大きな名前で保存しようとするけれど、生活の側はもっとささやかな形でしか残らないことがある。にもかかわらず、そのささやかな形のほうが、かえって本当に残ることがある。そこに、この作品の静かな肯定を置きました。
卒業という場面には、いつも線を引く力があります。クラス、通学路、何でもない会話、たまたま隣にいる感じ。そういうものが、あと少しで更新されなくなる。そのとき、人は関係をどう残すのかを考えざるをえません。この短編は、その不安を制度が先回りしてくる世界を書いています。
でも私は、この作品を制度批判だけで終わらせたくありませんでした。制度はたしかに圧縮するし、整えすぎる。それでも、なくなるのが嫌だから制度にすがりたくなる気持ちも本当で、登録しないほうが本当かもしれないという気持ちも本当です。その両方が立っていることが、この作品の重心です。
卒業は関係を終わらせる線ではなく、どこまでを制度に預け、どこからを自分たちで持つかを決める境目だ。私はこの作品で、その境目に立つ二人の少し不器用な合意を書きたかった。
「また明日」と言えるうちは、まだ何かが続いています。けれど、その続きは保証されていない。だからこそ、この作品では保証の代わりに、声と約束を置きました。書類に残る名前ではなく、書類に入らない呼び方のほうが先にある。その順序を、卒業前の橋の上で確かめる話として読んでもらえたらうれしいです。