謝罪のようなもの
意味が確定する前の声と画面。届くはずの謝罪が、まず雰囲気として流通してしまう入口です。
書きたかったのは、炎上社会の過剰反応それ自体よりも、謝罪会見という形式がいったい誰のために存在しているのかという問いでした。本当に被害者へ向かうための場なのか。それとも、視聴者の不安をいったん鎮め、会社が対処している顔を作り、メディアが切り抜ける素材を増やすための場なのか。会見場にいる全員が「必要だ」と言うのに、その必要性の持ち主だけが曖昧なまま進んでいく。
だからこのページでは、「届かなさ」と「必要量の増幅」をつながりのものとして読めるようにしています。
謝罪の外観を整える人、そこから破片を抜き出す記者、切り抜きを回す世間、その反応にまた会社が先回りする。
この循環はかなりマッチポンプに近い。
一方で映像側では、その循環に入る前の声の温度や沈黙の長さが残る。
ここで言う責任は、単に悪いことをした人が罰を受けるという話ではなく、誰が何をどこまで引き受け、何を返し、どこで説明を終えるのかという配分のことです。その配分が会見の場ではどこまでも膨らみ、最後の傘の場面ではようやく小さく定まる。
映像と短編ではその皮肉が、やや露悪的でありながらも表現できれば良いと思っていました。
この作品群の中心は事件そのものではなく、謝罪が別物へ変質していく線です。映像では声から沈黙へ、短編では会見から責任配分へ移る。その導線を並べると皮肉の位置が見えます。
意味が確定する前の声と画面。届くはずの謝罪が、まず雰囲気として流通してしまう入口です。
謝罪を代行する人ではなく、謝罪の必要量がどこまで膨らむかを知りすぎている人。声の温度を制度の文法へ翻訳する側でもあります。
真意ではなく切り抜ける破片を探す装置。問いを立てる側でありながら、答えが不足している空気も同時に増幅させる。
終盤で初めて現れる、必要量が測れる過失。MVの曖昧な謝罪が、ここでようやく誰に何を戻すのかという具体へ着地します。
三枝さんの講義を乱暴に要約すると、最初の教えはこうです。会見は事実確認のあとに来るのではなく、事実確認より先に「対処しています」という画を立てるために呼ばれることがある。ずいぶん身も蓋もない教えですが、この短編はそこから始まっています。
未来加害疑惑という奇妙な設定は、その教えを露悪的にしたものです。まだ起きていないことに対して会見が要請されるのは不条理ですが、会見しないこと自体が疑惑の燃料になるなら、会社は会見を開くしかない。必要があるから開くのではなく、必要があるように見せるために開く。この転倒を、三枝さんならたぶん「実務です」と言って片づけるのでしょう。
三枝さんが謝罪術の中で本当に教えているのは、主語を逃がす技術というより相手を広げる技術です。「関係者の皆様」「社会の皆様」「不安を感じられた方々」。この便利な広がり方を覚えると、謝罪はずいぶん安全になる。なにしろ相手が広がるほど、返すべきものの輪郭もぼやけるからです。
ここにかなりの皮肉があります。謝罪の相手が具体的なほど、本来は誠実であるはずです。けれど会見実務では、相手が具体だと危険になる。誰に何を返すのかが問われるからです。だから三枝さんは相手を広げる。会見は成功に近づきますが、そのぶん謝罪は届きにくくなる。この倒錯が、この話の中心です。
相手を広げ、主語を薄め、過失を状況へ散らす。届きにくいほど炎上しにくい、会見向けの謝罪です。
誰に、何を、どの程度返す必要があるかが見えている謝罪。小さいが、その分だけ正確で、相手が受け取れる。
三枝さんの教えをそのまま辿っていくと、謝罪は「すみません」と言えば済む単語ではなく、誰が誰に何について言っているのかが揃ってはじめて成立する、かなり面倒な言葉だと見えてきます。オースティン流に言えば、ごく面倒な遂行的発話です。会見マニュアルの人がそんな面倒を全部知っているの、少し嫌ですが、たぶん実務とはそういうものです。
その意味で会見の謝罪は、最初から失敗しやすい条件がそろっています。相手は広すぎ、出来事は曖昧で、何についてどこまで責任を負うのかも未確定で、言葉のかなりの部分は制度の要請で組み上げられている。だから謝罪しているようには見えるのに、謝罪という行為は着地しにくい。見た目は立派で中身は空転している。謝罪会見という形式そのものが、少しそういう危うさを抱えているのだと思います。
謝罪は、ただ口にすれば済む言葉ではなく、相手が誰で、何を損ねて、何を返そうとしているのかが見えて、ようやく成り立つ。
この節で言いたかったのは、三枝さんの教えが間違っているというより、正しいほど謝罪が制度の側へ寄っていくということです。だから彼女の講義は有能で、同時に少し怖い。うまく機能するほど、本来もっと不器用で具体的なはずの謝罪から離れていくからです。
三枝さんの講義の中でも、いちばん実務っぽくて、いちばん嫌なのがこれです。記者は真意を知りたいわけではなく、見出しにできる破片を探している。ずいぶん失礼ですが、この短編ではあえてその失礼さを採用しました。なぜなら会見の場では、真実を掘ることより、何についてどこまで責任を負わせられるかをどれだけ膨らませられるかが勝負に見えたからです。
現代のメディアを中心とする社会では、責任を追及する正しさが、そのまま責任を増やしていく仕組みにもなりえます。責任を追及する役割と責任を増幅する役割、この二つを同時にもっているのはかなり恐ろしい構造です。その不条理を、三枝さんの講義メモを経由して見せています。会見は説明の場の顔をしながら、かなりの割合で責任の採集場でもあります。
三枝さんはここを「リスク管理」と呼ぶのでしょうが、小説として見るとかなり不穏です。責任とは本来、必要な分だけ取ればいいはずなのに、その必要量を本人が決められない。被害者でもなく、当事者でもなく、だいたいは空気と拡散速度が量を決めてしまう。
責任の必要量を決めているのが、その場で一番責任を負わない人たちです。それがこの短編で表現している現代社会の嫌な部分です。
だからこの節では、責任そのものを軽くしたいわけではありません。軽くしたいのは、誰も測れていないまま増額だけされていく責任です。そこでは謝罪も反省も、回復ではなく延焼管理へ変わってしまうからです。
終盤のビニール傘は、三枝さんの教えが逆向きに証明される場面です。誰の傘を、どう間違え、何を戻せばいいかがわかる。つまり相手を広げる必要がなく、主語を逃がす必要もない。大げさな会見も、社会の皆様も、未来の被害者も、ここにはいりません。相手は目の前に一人いて、必要なのは傘を返し、「すみませんでした」と言うことだけです。
ここで見えてくるのは、謝罪は大きいほど誠実なのではないという、ごく当たり前のことです。必要な分を超えて広がった謝罪は、しばしば相手のためではなく周囲へ見せるためのものになる。逆に必要な分だけの謝罪は、小さくても正確で、相手へ届く。三枝さんが最初から知っていた「近すぎる相手には届かない」という限界が、ここでようやく正面から見えてきます。
本当に必要な謝罪は、必要な分だけでいい。必要以上に広がった瞬間、それはもう相手より観客のためのものになる。
最後に三枝さん自身が、少しだけ講師をやめています。彼女は逃げ道のある文章を作る専門家ですが、個人的な領域で何かを言うときには、むしろ逃げ道を減らしている。制度の言葉は安全ですが、そのぶん個人の言葉からは遠い。個人的な言葉は危ないですが、そのぶん近い。ここでだけ、三枝さんの教えが三枝さん自身から少し外れます。
会見という巨大なマッチポンプの外で、まだ一対一の文章が成立するのか。その確認を最後に少しだけ置きたかった。必要以上に膨らんだ責任の物語を通ったあとで、必要な分だけの言葉が残る。その縮小が、この短編の静かな終わり方です。
会見、想定問答、速報、切り抜き。全部が記録と再拡散のための言葉でした。最後に議事録を外すのは、必要以上に公的になった言葉を、必要な距離まで戻すためです。
だからこの短編は、謝罪会見なんて全部無意味だ、と単純に切り捨てる話でもありません。三枝さんの教えはたしかに有効で、だからこそ皮肉でもある。必要以上に広がった謝罪は空虚になりやすいが、必要な分だけに戻した謝罪や言葉はまだ機能する。その最小単位の回復を、傘と最後のメッセージで閉じています。