縁町の、世界のしくみ。
観測、言葉、記録、循環。物語の舞台を形づくる考え。
作者による読解ノート。哲学者の議論を紹介したうえで、作中の場面にどう当てはまるか、どこで当てはまらなくなるかを考えます。
存在——「いる」と「同じ人である」は別の問い
縁町の記録には、名前、映像、行動履歴が残る。しかし、ある人物の記録があることと、その人物がいま存在することは同じではない。さらに、いま目の前にいる人物が以前と同じ人物なのか、という問いも残る。存在の確認と、時間を隔てた人格の同一性を分けて考えたい。
デカルトの視点では、疑っている最中の自分の存在は否定できない。これは一人称の確実性であり、他人の記録が自分を証明するという議論ではない。翼が誰にも見られていない場面は、この区別から読める。自分がいることを感じられても、誰かに気づいてほしいという願いは解消されない。存在の確実性と孤独の解消は、別の問題だからである。
ロックの人格同一性論では、同じ身体や魂であることと、同じ人格であることを区別し、過去の行為へ及ぶ意識の連続性を問題にする。「記憶データが一致すれば同一人物」と言い換えると、この区別を失う。縁町で過去のログを復元しても、本人がその行為を自分の過去として意識できるかは、なお問われる。逆に、凛が翼を覚えているという事実だけで、ロックの条件が満たされるわけでもない。
したがって、作中の相互観測は「他人に見られなければ存在しない」という一般的な存在論にまとめるより、誰がその人を覚え、呼びかけ、現在の行為を受け止めるのかという関係の問題として読む余地がある。デカルトの読解とロックの読解では、その違いを場面ごとに扱う。
言葉——意味が変わることと、何でも意味できること
「二回」の音には、最初から全員が参照できる説明があるわけではない。それでも、一人が鳴らし、もう一人が返すという使用が続く。ここでは、何を指すかという問いに加えて、その音をいつ出し、相手がどう続けるかを読む必要がある。
後期ヴィトゲンシュタインは、言葉を、それが使われる活動から切り離して理解しようとする考えを問い直す。 「意味と使用」の議論は、あらゆる意味について例外なく成り立つ定義として書かれてはいない。 また、繰り返した回数だけで意味が成立するわけでもない。 どの場面で返し、どの違いを間違いとして扱うかという実践が問題になる。
この立場から見ると、縁町を文字どおり「言語ゲームが一切存在しない世界」と呼ぶことには難しさがある。 問い返しや冗談がある程度通じるなら、すでに共有された使い方があるからだ。 本作では、言語ゲームが完全にないのではなく、共通の規則が不安定で、やり取りの中で作り直される世界という一つの解釈がある。 これは世界設定の確定ではなく、ヴィトゲンシュタインとの比較から生じる解釈である。
語の意味、話者の意図、聞き手が受け取った内容も分けたい。 相手が慰めと受け取った発言が、慰める意図で発せられたとは限らない。 その食い違いをすぐ訂正せず、次のやり取りで確かめるところに、縁町の会話の特徴がある。
語用論のページで詳しく読む。自由——カントの自律と、ほかの自由論
「他者にも適用できる普遍的な原理を意志できるか」という説明は、カント的な自由の捉え方である。自分の行為の原則(格率)を、自分だけの例外にせず、誰にでも成り立つ法則として意志できるかが問われる。
この意味では、「監視がなくても行為を引き受ける」は作品を読むための言い換えにすぎず、カント自身の自由の定義ではない。誰も見ていなくても、褒美への期待や評判への不安だけで動くことはある。問うべきなのは監視の有無だけでなく、何を理由に、その行為を選ぶのかである。
たとえば「自分に不都合なときだけ、相手の記録を勝手に書き換えてよい」という原則を考える。自分が書き換えられる側でも、その原則を認められるだろうか。これは本ページで設けた検討例であり、作中の台詞ではない。カント的に読むなら、翼や凛の選択を「命令に逆らったから自由」と評価する前に、その選択の原則を吟味する必要がある。
同じ選択を、三つの立場から見る
ヒュームは、自分の意志に従って行動したり、行動を控えたりできることを自由として論じる。意志や行為に原因があることと、強制されずに行動できることは両立する。ラムネを飲みたい理由が過去の経験に由来していても、そのことだけで自由が失われるとはしない。
ショーペンハウアーは、経験の中で生じる個々の行為が、性格と動機によって必然的に決まると考える。「自分で選んだ」という感覚から、同じ条件で別のものを欲することもできた、と直ちに結論することはできない。翼が命令されずに踊っても、それだけでは意志の自由の証明にならない。
三者の違いは、自由について何を確かめようとしているかにある。ヒュームなら「望む行動を妨げられていないか」、ショーペンハウアーなら「その望みはどのように決まったか」、カントなら「どの原則に従って意志するか」が焦点になる。縁町の自由を、最初から一つの定義にまとめる必要はない。
ここで第三規範「命令されなかった行為に、理由をさがすな」とカントの考えの間に矛盾が生まれる。 行為者を詮索や管理から守る規範としては読めるが、行為の原則を理性的に吟味するカントの倫理とは同じではない。カントの読解とショーペンハウアーの読解は、同じ場面に異なる問いを向けている。
真理——事実、証拠、感覚の報告を区別する
「ログに残っている」「本人が覚えている」「相手もそう言っている」は、ある出来事を信じるための証拠になりうる。 しかし証拠があることと、その判断が真であることは同義ではない。 記録も記憶も誤る可能性がある。逆に、記録がないことだけで、出来事が起きなかったとも言えない。
同じラムネを翼が「痛い」、凛が「甘い」と言う場合、二つの報告は必ずしも矛盾しない。各人の感覚について述べているからである。一方、「二人が同じ時刻に同じ場所にいた」という主張は、別の仕方で確かめる必要がある。感覚の違いを認めることから、出来事について何を言っても正しいとは導けない。
また、「二回の音は友情を示す」という読みは、時刻の記録とも感覚の報告とも違う、本作品の一つの解釈である。 ただし解釈が複数あることと、どの解釈にも同じだけ根拠があることは別である。
第四規範の「揺れ」をこの区別から読むなら、自分の判断を訂正できるようにしておく態度になる。 判断を一切しないことでも、相手の説明を無条件で正しいとすることでもない。
記録——保存した情報は、その人の代わりになるか
映像は動作を残せても、その動作の理由を一つに確定できない。笑っていた記録があっても、楽しかったのか、相手に合わせたのかは別に調べる必要がある。記録を否定するのではなく、何の証拠として使えるかを限定することが重要になる。
人格についても同じ問題がある。ある人物の行動を再現できること、本人が過去を思い出せること、周囲が同じ人として接することは、それぞれ異なる条件である。ロックの問いを作中へ持ち込むなら、保存された項目の量だけでなく、本人が過去の行為を自分のものとして意識できるかを確かめなければならない。
662系列は、この区別をさらに難しくする。発話者や保存者を一人に定められなくても、番号は繰り返し読まれ、過去の場面を結びつける手掛かりになる。ただし、読者が後から意味を見つけることと、過去の出来事そのものが変わることは別である。後者まで主張するには、作中で記録や出来事が実際に更新された描写を示す必要がある。第8章の読解では、記録と解釈の関係を扱う。
応答——理解できたことと、関わり続けること
二回の音を返す、問い返す、ノールックで手を合わせる。こうした行為は、相手と同じ意味や感覚を持つことを証明しない。それでも、先の行為を受けて何かを返したという関係は確認できる。ここでは、理解がどこまで成立したかという問いと、相手にどう接するかという問いを分けられる。
この違いは倫理的にも重要である。相手の事情を理解することは判断の助けになるが、理解し終えるまで相手の要求を無視してよいとは限らない。逆に、返事をしたというだけで善い行為になるわけでもない。返答には威圧や拒絶もある。何を返したか、相手が断れるか、その後に何が起きたかまで読まなければならない。
沈黙も一律に肯定できない。そばに居続ける沈黙と、助けを求める相手を放置する沈黙は異なる。作中の沈黙を応答と読む根拠は、「声がない」こと自体ではなく、視線、手の動き、待つ時間、次の返事といった前後の描写に求める。第6章と第10章を比較して読みたい。
三毛猫とお姉さん——名前から正体を決められるか
三毛猫を「神様(仮)」と呼ぶことと、猫が世界の仕組みを知っていることは別である。3-8では、二人は猫を追い、あとからその行動に理由を付ける。まず確かめられるのは、猫についての知識より、二人が猫をどう扱ったかである。「神様」という呼称だけを根拠に、猫を全知の存在と断定することはできない。
場面読解の3-8を参照。「(仮)」という留保も無視できない。二人は猫の正体を確定せず、その呼び名を使っている。ここには、何を指しているかが共有できても、その対象についての説明まで一致しているとは限らない、という言葉の問題がある。猫が人間の言葉の外にいると断言するより、呼称からどこまで推論してよいかを問うほうが、この場面に即している。
お姉さんについても、行為から読める範囲を確かめたい。2-4でコインを渡すことは、相手の代わりに結論を選ぶ助言とは違う。しかし、それだけで相手の自由を尊重した善い行為と断定することもできない。判断を委ねたとも、必要な助言をしなかったとも解釈できるからだ。 タピオカや仕事に関わる描写も、彼女は哲学的な象徴ではなく、一人の人物として日常的な生活の一部の描写にすぎない。
お姉さんの人物論で比較する。
終幕で本を持つ姿は、作中の人物と読む側の立場を重ねて見るきっかけになる。ただし、本を持つという描写と、彼女が作者や神であるという同定の間には、本作に記載されている情報だけでは根拠が不足している。 結末の解釈では、実際に描かれた物と、そこから推測したものは分けて考える必要がある。
場面へ戻るときの問い
誰にも見られずに踊る場面なら、自己の確実性を問うのか、孤独を問うのか、行為の自由を問うのかで読み方が変わる。 二回の音なら、語の定義、使い方、相手への態度を分けて見る。