「撮っておけばさ。あとで見返した時に、“わたし、あの時そこにいたんだ”って思えるじゃん」。この言い方には、翼の細い切実さがそのまま出ています。いまの自分が少し頼りないから、あとで触りなおせる痕跡がほしい。思惟だけでは心もとないぶん、彼女は記録をもうひとつの足場にしようとする。
けれど、この章はその足場を静かにずらします。画面には翼しか映っていないのに、rinの声は聞こえ、隣の座面はわずかに沈み、額にはちゃんと痛みが残る。もし記録が存在証明の決定版なら、rinは不在でなければならない。けれどレス・エクステンサとしての身体は、そんな結論にうなずかない。見えていないのに、作用だけはあまりにもはっきり残っているからです。
ここで気になるのは、rinが「消えた」のではなく、「映像の側に回収されていない」ということです。rinは物として切り出されるかたちでは残らないのに、声、間、ベンチのきしみ、翼の反応の変化としては確実にそこにいる。映像は対象を保存することには強くても、他者をそのまま保存することには向いていないのかもしれない。フレームに入った瞬間、相手はどうしても「見えるもの」「整理できるもの」へ寄せられてしまうからです。
その意味で、ここはデカルトよりむしろレヴィナスに近い。レヴィナスにとって他者は、こちらがきれいに把握したり、概念に収めたり、表象として所有したりできる対象ではありません。他者はいつも、こちらの理解や視線から少しはみ出したまま、なおこちらに働きかけてくる。rinが映らないのは、その極端な形に見えます。姿としては回収できないのに、声を返し、痛みを残し、翼の問いそのものを動かしてしまう。だからrinは、不在というより、表象に収まらない他者としてそこにいる。
翼が残したかったのは、ほんとうはrinの姿だけではなかったはずです。rinがいることで少しずつ変わっていく自分の呼吸や、返事を待ってしまう時間や、相手のひとことで考えの向きがずれていく感じまで含めて、今日を残したかった。その厚みは、画像として固定しようとした瞬間にこぼれてしまう。レヴィナスふうに言えば、他者は像として手元に置かれる前に、すでにこちらへ要求を突きつけてくる存在だからです。
だから、デカルトのコギトはここでも必要でありながら、やはりそれだけでは足りません。「考えている私」がいることは言える。けれど、他者との出来事はその確かさだけでは支えきれない。rinが映らないという出来事は、存在が証明のなかに収まるより先に、関係や応答として起きてしまうことをかなりはっきり見せます。記録からあふれたもののなかにこそ、他者らしさが残っている。
だから最後のrinの言葉が残ります。残らなかったことまで含めて今日だったのではないか、という言い方です。きれいに保存できなかったから失敗なのではなく、保存しきれなかったものを抱えたまま次を見にいくこと。翼が打ち込む《ここにいる証明をして!_再観測》という題は、そのためにあるように見えます。